ベルリンと冷戦(3)

【ウィーン会談】

前略

ケネディ「核実験禁止もさ、中国の諺にも「千里の道も一歩から」ていう諺あるじゃん。」

フルシチョフ「中国について詳しいやん(#^.^#) そんなことよりベルリン問題について話そうや」

ケネディ「・・・そうだね。」(ケネディはあまりベルリン問題に触れたくなかった)

フルシチョフ「なぁ、一緒に東ドイツと平和条約結ぼうや!もう東西ドイツ統一に現実性ないやろ?平和条約結んだら東ドイツは敵じゃなくなるから西ベルリンから国連軍もアメリカ軍も撤退する。いいやんそれで。もし出来ないならこっちはこっちで東ドイツと単独講和するからな。もちろん、それは西ベルリンのアクセス権を東ドイツが持つことになる」

ケネディ「いやいや、その平和条約を結んだら西欧諸国との協定や約束を破ることになるから。そしたら誰もアメリカとの約束を信じなくなるだろ。それはアメリカのためを考えるとあり得ない。そもそもなぜお前に戦争で勝ち得た権利を放棄するよう言われないといけないのだ?理解できない」

フルシチョフ「(#^.^#)イラッ つまり、大統領はアメリカの利益のために平和条約を結ばないってことか。アメリカのためならモスクワまで遠征してもいいってことやな」

ケネディ「(#^.^#)ナニイッテンダコイツ そんなこといってないだろ。アメリカはベルリンにとどまるって言ってんの。15年もいるのだから。アメリカがベルリンから撤退すれば世界のバランスが変わるし、それはあり得ない。」

フルシチョフ「(#^.^#)キキワケネエナ 別に脅迫してるわけじゃないやん。西ドイツに侵略して境界線変えるなんて一言も言ってへんし。ただ西と東で平和条約結んで、お互い違う国ってことで仲直りしよってこと!平和のため!利益ばかり求めるアメリカの論理が理解できへんわ」

フルシチョフ「てことでソ連は平和条約結ぶで。邪魔するなら侵略行為としてみなすからな」

ケネディ「仮にアメリカが平和条約とやらを結んだら西ベルリンのアクセスルートはどうなるんだ?」

フルシチョフ「チッ ・・・そりゃあ新しい条約はアクセスを自由に変更するやろなぁ~」

ケネディ「(#^.^#)オイッ それは俺らに喧嘩うってるよな? 俺たちはわざわざベルリンのアクセス権を否定されるためにウィーンに来たわけじゃない。米ソの改善のために来たんだ。別にソ連が東ドイツの権利を認めるのはいいけど、ソ連がアメリカの持っている西ベルリンの権利を東ドイツに投げ与えるのは理屈がおかしい!」

フルシチョフ「(#^.^#)プチンッ ともかくもうソ連は待てへん! 年末までに西ベルリンへのアクセスをすべて東ドイツの管理下に置く!これはわかるな! もしベルリンのことで「戦争」したいならどうぞ! ま、もっとも「戦争」したいような狂人には拘束着を着せないとあかんけどな^^;ハハッ」

ケネディ「( ゚Д゚)センソウトカアタマオカシイ ともかく!この平和条約は喧嘩売ってるようにしか思えない!」

フルシチョフ「ソ連は平和条約締結後の西ベルリンのいかなる権利も認めへんからな!」

ケネディ&フルシチョフ「ぐぬぬ・・・・・・・・・・・・・」

続く(この後も会談は続きますが長いので後略させていただきます)

1961年6月3日~4日にオーストリアのウィーンで行われたウィーン会談でのケネディとフルシチョフの会話の一部を抜粋してまとめさせてもらいました。東西ドイツ問題についてソ連は西側に東ドイツとの平和条約締結を求め、西ベルリンの自由化を試みます。また、もしそれが実現しない場合でもソ連が単独で東ドイツと平和条約を結ぶことによって、西ベルリンの占領時代は終わり、東ドイツに西べルリンを返還しなければならず、西ベルリンのすべてのアクセスルートの管理権を東ドイツに移譲しなければならないとフルシチョフは主張します。しかし、フルシチョフのベルリンに関する要求に対してケネディは会談の最後までいかなる譲歩もしませんでした。アメリカにとって西ベルリンの約束を反故にすることはアメリカの信用にかかわることであり、ケネディには自分が引き下がらなければフルシチョフが軍事的に仕掛けてくることはないという考えがあったのです。結果、ウィーン会談はベルリン問題の解決にはいたらず、お互いに力を誇示しあうにらみ合いのようになってしまいました。

 

【フルシチョフの苦悩】

フルシチョフ「会談あんまりうまくいかなかったわ・・・・・」

ウルブリヒト「まじか・・( ;´Д`)」

フルシチョフ「せやねん。まぁだから壁でも作って西べルリンを囲むか・・・」

ウルブリヒト「巨人で壁を作るってかwwwww」

フルシチョフ「人口流出問題は何とかしないとあかんやろ!(何言ってんだこいつ)」

ウルブリヒト「そうですね!そうしましょうww」

フルシチョフ「うむ。(みんなに文句言われるやろな・・・)」

フルシチョフにとってウィーン会談はほぼ失敗に終わりました。西ベルリンには西欧参加国の軍が駐在しており、仮に単独講和を東ドイツと結んでも西ベルリンのアクセス管理権を手に入れるのは難しかったのですそのためフルシチョフは東ドイツの人口流出問題に対し西ベルリンの周りを壁で囲むという解決策を考えだしました。しかし、壁の建設は社会主義の世界的批判を受けるものだとフルシチョフは十分認識しており、この解決策には苦悩したそうです。ですが人口流出問題は東ドイツの存続にかかわるものであり、空路を遮断することはアメリカと戦争になるのでそのようなリスクを冒すことはできませんでした。

【ベルリンの壁建設】

ウルブリヒト「我が東ドイツの建設力はァァァァァァァアアア世界一ィィィィイイイ!!!」

一晩後

西ベルリン市民&アメリカ「なんじゃぁこりゃぁああああああああああああ!?」

1961年8月13日、東西ベルリンの境界線が封鎖され、西ベルリンをぐるりと取り囲む壁が一夜にして作られました。これをベルリンの壁といいます。ベルリンの壁建設はウルブリヒトを含めた一部の幹部にしか知らされてなったため、アメリカもこの情報を察知することができず、このニュースは世界中の人々を驚かせました。最終的には壁の全長は155キロメートルに達し、壁から内側には100メートルの分離帯を作りました。そのため逃亡するためには隠れる場所のない100メートルの分離帯を走らなければいけませんでした。

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