ネルソン・マンデラ(3)

【マンデラ 武力による戦いを決意する】

アフリカーナー政権「英連邦から脱退(*^-^*) これで誰にも邪魔されることなく白人の楽園を作れるぜ!!!!!!!!!」

マンデラ「あいつらは俺たち黒人の声をサルの鳴き声くらいにしか思ってへん・・・」

マンデラ「言葉だけの抵抗じゃただ一方的にやられるだけや・・・・・」

マンデラ「俺は正義のため・・黒人のために戦うで・・・・・・!!」

マンデラ「俺がならず者のボスになる!!」

英連邦から脱退した南アフリカは1961年に南アフリカ連邦から南アフリカ共和国となり、英ポンドから独自通貨のランドに変更しました。これは南アフリカの完全な独立を意味し、アフリカーナーたちは歓喜しました。一方マンデラは「非暴力抵抗」に限界を感じていました。そして、同年6月に活動路線を変更。ANCの武闘部門「ウムクホント・ウェ・シズウェ(民族の槍MK)」を設立し、自らが作戦指揮を執りました

【マンデラ 逮捕される】

マンデラ「送電線を破壊しろ!!!!!!」

アフリカーナー「( ゚Д゚) これは俺たちに対する挑戦やな(; ・`д・´)」

アフリカーナー「反逆罪で逮捕や!!!!!!」

マンデラ「捕まってもた・・でもまだ終わってへん・・・俺たちの戦いはまだまだこれからだ!!!!!」

アフリカーナー「(完)ご愛読ありがとうございました。マンデラ先生の次回作にご期待くださいwwwwwww」

マンデラ「終わらすな( ゚Д゚)」

MKの指揮が原因でマンデラは捕まってしまいます(一説にはCIAの情報がマンデラ逮捕につながったと言われています)。裁判でマンデラは無期懲役の判決が言い渡されました。南アフリカ政府はマンデラ逮捕によってANCの活動は弱体化するだろうと期待しましたが、ANCの活動も捕まったマンデラも、黒人の権利回復に向けての歩みを止めることはありませんでした。

 

【マンデラ 27年間に及ぶ獄中生活】

マンデラ「捕まってもた・・・・でも監獄でもできることはたくさんある!」

マンデラ「まずは、アフリカーナー語を学ぼう!」

マンデラ「そうすれば、南アフリカの白人の人たちともっとわかりあえるようになるはずや(#^.^#)」

マンデラ「法律の勉強は続けよう!」

マンデラ「それはいつかきっと役に立つはずや(#^.^#)」

マンデラ「自伝を書こう!」

マンデラ「それが外で頑張ってる仲間たちの励みになってくれたら最高や(#^.^#)」

マンデラ「そして、同じ捕まった刑務所の仲間を励まし、南アフリカの夢を訴え続けよう!」

マンデラ「場所が刑務所に変わっただけでやることは何も変わらへん!!!」

マンデラ「刑務所は俺たちの精神を破壊するところやない!勝利をつかむまで闘いを続ける決意を一層固めてくれる場所や!」

マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑になるとそこから27年間の間を刑務所で過ごしました(1964~1982まではロベン島にそこから1989年まではケープタウンに収容されていました)。捕まった後もマンデラは歩みを止めませんでした。白人を理解するためにアフリカーナー語を学び、法律の勉強を続け(1989年に法学士号取得)、自伝を書いて外の仲間を励まそうと試み(予定していた1978年には出版できず、釈放後の1994年に出版)、刑務所内でも全人種の平等を訴え続けました。彼は27年の刑務所内で結核や呼吸器肝疾患などの病気になったり、妻の逮捕に心を痛めたりしましたが、彼は獄中生活を次のように語りました。「刑務所は、我々の精神を破壊するどころか、勝利とつかむまでこの戦いを続けるのだという決意を一層固めさえてくれる場所でした」と

【アフリカーナー政権 黒人追い出しの失敗と世界中からの大批判】

南アフリカ政府「バンツー・ホームランド市民憲法!黒人を部族ごとに独立させて南アフリカから切り離すで!」

南アフリカ政府「ま、独立っていうても主権は俺らが持ってるけどなwww」

南アフリカ政府「これでついに俺たち白人の国ができるぞ(T_T)/~~~カンムリョウ」

世界世論「いや、流石に調子乗りすぎやろ(。-`ω-) そんなん認めんわ」

南アフリカ政府「なんやて!?( ゚Д゚)」

6年後

ソウェト学生デモ隊「俺たちの言葉をとりもどせ!!!!!!!!!」

警官隊「(#^.^#)プチンッ」銃乱射

ソウェト学生デモ隊「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

警官隊「あ、やりすぎちゃったwwwwwwwww」

南アフリカの白人市民「うわっそれは流石に引くわ(゜_゜)」

1970年に南アフリカはアパルトヘイト政策の最終段階といえる、主権を握った状態で黒人を独立させる法律「バンツー・ホームランド市民憲法」を可決しました。これが実現すれば、人口の六分の一の白人が南アフリカの86.3%を南アフリカとして所有し、黒人は残りの荒れ果てた土地に追い出される予定でした。しかし、流石に形式だけの「黒人の独立国」を国家として認める国はありませんでした。また、1976年にアフリカーナー語を学校の共用語にするという政策に反対する学生デモがヨハネスブルグ西のソウェトで行われました。しかし、この学生デモに対して警官隊は催涙弾や銃撃を学生に加えました。その結果、小中学生を含める1000人以上の学生が死亡。世界的な非難を浴びるだけでなく、南アフリカの白人市民たちもアパルトヘイト政策に疑問を持つようになります。

koukoku 4tume
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